ミッドガルという街から出ることがあるとすれば。
この暗い傘から外に出ることがあるとすれば、空をまず見てみたいとエアリスは思っていた。
エアリスに世界の常識はない。
その常識というのは、たとえば海。野を駆けまわるチョコボ。空にある太陽。
それらすべてをエアリスは知らない。すべて伝聞か、道端に捨てられた雑誌に載った写真の情報でしかない。

多くの情報の中で、エアリスが見たいと切に思うのが空であった。
幼いころ、神羅の窓から見た空はかすかに覚えている。目が覚めるような青がそこに広がっていた。
美しいその空を、恨めしい思いで見つめていた。空を舞う鳥、ゆったりとどこまでも流れていく雲――。
あの青は今もあるだろうか。頭上に今も広がっているのだろうか。

空想しながらスラム街に立つ。
空想の中のエアリスは風に吹かれ、太陽に照らされているのだ。
頬を撫でる風に匂いはあるだろうか。チョコボという鳥は、どれほどの速さで走るのだろうか。
モンスターというものはいったいどんな風貌をしているのだろう。

「エアリス!」

風に吹かれていたエアリスの目前を、一台の大型トラックが通る。
運転手が窓から顔を出し、こちらに向かって何かを叫んでいる。
一気に現実に引き戻されたエアリスは、血の気が引くのを感じた。
トラックに轢かれそうになったのはもちろんのこと、背後の人物に助けられたという事実を認めたくない。
「危なかったな」
手首を強くつかむ主を振り返る。そこにいたのはツォンだった。
「……ありがと」
消え入りそうな声で一言つぶやいて、手を振りほどく。
手首にはツォンの感触が残っていて、胸がざわつく。こんなに強く握りしめられていたということに、エアリスは目を伏せる。

「スラム街にいて、ぼんやりするな」
ツォンはそう言うと、乱れてもいないネクタイをギュッと締め上げた。そんなに締め上げて、苦しくないだろうかとエアリスは不思議に思う。
ツォンはいつも完璧だ。完璧なまでに整った顔と、スラム街に溶け込む陰鬱な雰囲気。
俊敏な動きと、力強い体。完璧だからこそ不気味さを覚える。
「ぼんやりなんて、してない」
「そうか?足もとがフラフラで目は遠くを見ていた」
間髪入れずに返ってくる言葉に、ぐうの音も出ない。眉根を寄せるエアリスをツォンが鼻で笑う。
「あっ!いま馬鹿にしたわね!」
キッと睨むエアリスに、ツォンはやれやれと手を上げて見せた。その仕草も自分を馬鹿にしているように見えて、エアリスは余計いらついた。

「お前は分かりやすい。すぐに顔に出るからな」
ツォンは言うと、まるで幼い子供をからかうようにエアリスの額を小突いた。
思わず額を押さえて、ツォンを見上げる。そんなエアリスを見て、ツォンは自嘲気味に笑い自身の人差し指を見た。

「そんな顔をするな」

ツォンの声色は落ち着いていて、あの時歌ってくれた童謡が耳に蘇る。
あれはなんという歌だっただろう。
スラム街の喧騒が遠くなり、目の前のツォンが色濃く認識される。
実験施設に満ち溢れる化学薬品の匂いがどこからか香って2人を包む。
エアリスが物心つく前から、ツォンは彼女のそばにいた。
あの時のツォンは、今よりも優しかったような気がする。時には微笑んでくれたものだ。
初めは怖がっていたエアリスだったが、ツォンのぎこちない笑みにその思いは吹き飛んだのだ。
科学者の目を盗んで、ツォンはエアリスと目配せをした。その瞬間が何よりも楽しかった。
ツォンと秘密を共有しているという、秘密めいた仕草が楽しかった。そうだ、誰もいないときにツォンは童謡を歌ってくれたのだ。

押さえた声で奏でられる童謡がエアリスは好きだった。
そのはずなのに、何の歌だったのか思い出せない。

「あの歌は、なんだったかしら」
「あの歌?」
「……あなたが昔、歌ってくれたのよ。神羅で――覚えてない?童謡だった」
見上げるツォンは、そのころよりもずいぶん背が伸びた。
何より変わったのは、ツォンの雰囲気や表情だ。もう、ツォンはあのころのような笑みを浮かべてはくれない。
神羅から母と逃げて、スラム街へ辿り着いたエアリスを探し出したツォンが我が家にやってきたことを思い出す。
思えば、その時初めてツォンを怖いと思った。
あの陰鬱とした世界で、ツォンだけはエアリスの味方のような気がしていた。なにかあれば、ツォンが守ってくれるのだと、どこかでエアリスは信じていた。
その根拠のない自信は、あの童謡にあった。二人の秘密が、ツォンの優しいほほ笑みがエアリスの心を救っていたのだ。
だが、数年ぶりに会ったツォンは変わっていた。
眼は暗く淀み、ツォンがリビングへ足を踏み入れた瞬間明るい我が家が負の雰囲気に包まれた。巨大な影が家全体を覆った。
エアリスは思わず、エルミナの背後へ隠れスカートのすそを握った。エルミナもまた、恐怖を感じたのだろうか。大丈夫とエアリスの手を握る手が、少し汗ばんでいた。

エアリスは神羅での思い出を語った。ツォンは暫く考えた後、「昔のことは覚えていないな」と素っ気なく言った。
ツォンの言葉に、エアリスは悲しくなった。辛いことだらけだった神羅での、カラフルな思い出を否定された気がした。
(やっぱり、この人は機械になっちゃったんだわ)
かごに入った花の花弁をそっとなぞる。しっとりと湿った花の感触は人の皮膚を連想させて、エアリスの心を慰めてくれるようだった。
きっとこの人は、わたしと過ごした日々も覚えていないのだろう。わたしなんて、この人にとってみればただの仕事の一部であるし、単なる道具でしかない。
古代種という「道具」に思い出は必要ない。ただ必要なのはこの身体、古代種という「品種」。そうツォンは思っているのだ。

(わたしも忘れちゃった。あんな童謡、どうでもいいものだもの)

口に出そうとしたのに、言葉はでなかった。
中途半端に開いた唇を閉ざして、エアリスは俯いた。
その言葉を口にしたら、色づいた過去の思い出が灰色に霞んでしまうような気がした。
ツォンが放棄した過去を、わたしも放棄してしまったらあまりにも可哀そうだ。

「わたし、あなたの歌すきだったのよ」

神羅での数少ない色づいた過去を励ますために口にした言葉だった。
そうすることで、あのころの思い出が肯定されるような気がしたし、口に出したらその思いが余計強くなった。
「あなた、変わった」
言って、見慣れたアスファルトを歩きだす。
暫くの間をおいて、ツォンもまた歩き出した。背後からコツコツと、ツォンの足音がついてくる。


スラム街を抜けても、ツォンの足音はやまない。
いつもならスラム街を無事に抜けたら知らぬうちに消えている足音は、珍しくエアリスの家まで続いた。
その間、二人の間には何の会話もなかった。
ツォンの足音は、過去の思い出と重なった。その足音はザックスだった。
ザックスはエアリスの前にふらりと現れ、少し会話をするとなんだかんだと理由をつけてエアリスを家まで送り届けた。
遠慮するエアリスに、ザックスは笑って「そっちのほうで任務があるんだ」と言った。
じゃあ、と共に歩き出し、エアリスをちゃんと家の前まで送ると「いっけね!」と頭をガシガシと掻く。
「俺、任務先間違えちゃったみたいだ」
そう言うと、彼は手を振りながら走り去って行った。
見え透いた嘘を吐くザックスが好きだった。へたくそな嘘、愚っ直なまでに正直な人。

最後の日も、いつものように笑顔を見せて言った。
「帰ってくるよ」
いつもの任務だから心配することはない、大丈夫、俺は強いから。
そう言っていたのに、何の音沙汰もないまま月日が過ぎた。教会で待っていても、スラム街にいても彼は来ない。
あの笑顔が見たいのに。ただそれだけでいいのに。

きらきらと輝く思い出は胸を苦しくさせる。現実の自分が惨めな気持ちなときは尚更だ。
脳裏にザックスの弾ける笑顔が浮かんで、エアリスは思わず目を閉じた。
ザックスのことを思い出すのは辛かった。彼もまた、変わってしまったのだろうか。
(俺、エアリスの笑顔好きだなあ)
以前、ザックスはそう言ってエアリスの頭を撫でた。
もう、大きな手のひらの感触は覚えていない。だが言葉は大切に胸の中にあった。
ザックスはもう忘れているのかもしれない。覚えているのはわたしだけで、ザックスは頭を撫でたことも、映画を見に行ったことも、なにもかも忘れているのかもしれない。
ツォンと同じように、『もう忘れた』と、どこか遠い町で言っているのかもしれない。

世界が真っ暗になる。足元に大きな穴があいて、どこまでも落ちていく。
わたしがいなくなっても泣いてくれるのは母一人だけだ。
わたしには母と出会う前の過去がないのだ。産みの母は死に、ツォンも、ザックスもわたしとの思い出を忘れているのなら、わたしは存在しなかったことになる。
惨めな気持ちになって、自分を奮い立たせて歩かなければそのまま地面にへたり込んでしまいそうだった。
どれだけ思い出を語ったとしても、皆はそれを忘れてしまう。わたしにはどうすることもできない。
幼いわたしが叫んでいる。目の前には行き交う多くの人々。彼らはそれぞれの方向を向いて歩いている。
「忘れないで!お願い、覚えていて――」
大声で叫んでも、だれも振り向いてくれない。どこかで見た覚えのある横顔がそこにはあるのに、誰もエアリスに一瞥もくれない。
涙が浮かんで、泣きだしたくなるのを堪えながら、嗚咽交じりで叫んでも皆行ってしまう。
わたしを置いて行ってしまう。わたしは小さくなって消えてゆく。


「あれは童謡じゃない」
玄関のドアに手をかけたところで、ツォンが呟いた言葉にエアリスはハッとした。
額に汗をかいていた。手のひらで拭って振り返ると、ツォンはエアリスを見つめて再度言葉を繰り返した。
「あれは童謡じゃない」
今度はしっかり聞こえた言葉に、先ほどの話をしているのだとエアリスはやっと理解した。
思い出を――わたしと同じ思い出を共有しているのだと彼は言っているのだ。

(忘れたと言っていたくせに)
小さな嘘に、エアリスは僅かな苛立ちを覚えた。いい年をした男が、なぜそんな嘘をつく必要があったのだ。
そう考えるとツォンが小さな人間に見えた。同時に安堵した。
「じゃあ、なんだっていうのよ」
ドアノブから手を引いて、ツォンに向き直る。ツォンは僅かに思案すると、重い口を開いた。
「私が作った」
「え?」
「……私が作った歌だ。……だから、あれは童謡じゃない」
言葉の最後には、ツォンはエアリスから視線を逸らしていた。靴先に視線を落とすツォンの表情はエアリスからは見えない。
ツォンの告白に、エアリスは一瞬言葉を失った。
思い出の中のツォンが甦る。初々しい雰囲気を纏った青年が少女の前で歌を口ずさんでいる。
適当な音階で、おせじにも上手とは言えない代物だったのかもしれない。
それでも、幼い少女には救いをもたらす歌だった。灰色の世界がカラフルになるような、絶大な力を持った歌だった。

「……あなたが作った歌だっただろうが、なんだろうが。そんなこと、どうでもいいわ」

ツォンはなぜ歌を作ってくれたのだろう。神羅に監禁されていた少女を哀れに思ったからだろうか。
だが、今となってはそんな理由どうでもいいものだった。
童謡だろうがなんだろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
ツォンが顔を上げてエアリスを見る。エアリスの次の言葉におびえているような、怒られるのを待つ少年のような瞳をしていた。
その瞳を見て、エアリスは何も言えなくなった。瞳は懐かしい昔のツォンそのものだった。

(――あなたが歌をうたってくれた、それだけで十分なの)
準備された言葉が出てこない。それを言ったら、何かが壊れるような気がした。
言葉も交わさず、必要最低限のことしか話さないわたし達。忘れてはいけない、彼は神羅の犬なんだ。
この瞳も、きっと彼の技の一つ。エアリス、ほだされちゃダメ。彼はわたしの過去を利用しようとしているのよ。
「ありがとう」などと言ってしまえば、彼の計画通りになってしまうのよ。もう一人のわたしが言っている。敵を憎めと言っている。
だけど、素直に嬉しかった。ツォンが覚えていてくれたこと、そして何より、この冷徹な人間が歌を作っていたということが愛おしく思えた。

ひとつ瞬きをすると、ツォンの瞳はもう少年のような瞳をしていなかった。
いつも通りの冷静な、瞳の奥には残酷な光がきらりと見えた。
「スラム街で呆けるな。あそこは十分に危険な場所だ」
分かり切っていることを言って、ツォンは背を向けて歩いていく。背筋をしゃんとのばして、足早に遠ざかって行く。
スラム街や教会から家まで送るとき、ツォンが歩調を合わせてくれるのをエアリスは知っていた。
トラックに轢かれそうになったとき、慌てた様子で彼は名前を呼んだ。スラム街にいるとき、彼はいつもそばにいることも知っていた。
額を小突くのは、幼いエアリスにツォンがよくした悪戯だった。冗談交じりに、笑いながら人差し指で額を小突くのだ。
スラム街で、ツォンもまたわたしと同じように過去を思い出したのかもしれない。

気を抜けば泣き出してしまいそうだった。胸の前で組んだ両手は、あふれだしそうな感情を抑えるためのものだった。
歌が聞こえて、エアリスは顔を覆った。

(そう、覚えていてくれたのね。わたしだけじゃなかったのね)

手首にツォンの体温が甦る。力強い腕に、わたしは守られていたなんて。
行き交う人の中にツォンの顔も確かにあった。わたしが手を伸ばしたら、彼はその手を握ってくれた。
なんてずるい人だろう。普段は冷たい人間で、人のことを道具としか思っていない癖に。

(ザックスも覚えているかなあ?ここに帰ってきてくれるかなあ?)

幼い子供に戻って、エアリスはツォンに縋りつき尋ねたかった。大声で泣けたらどれだけ良いだろう。
今から駆けだして、ツォンの背中に抱きついて大声で泣けたらどれほど楽だろう。
思いの丈を、不安を大声で伝えられたらどれだけ良いだろう。


それができないから、エアリスは何度もありがとう、ありがとうと繰り返した。
脳裏にはあの日ツォンが歌ってくれた歌が流れ続けていた。
一体どこから聞こえてくるの、この歌は。しかし、顔を上げたくても上げられない。
顔を上げてしまったら、わたしはツォンに全てを曝け出してしまう。全てを投げ捨てて、無様な姿を晒してしまう。


尚も歌は流れ続ける。
暖かい思い出へと連れて行ってくれる、魔法の歌だった。













2010/07/04 meri




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