彼は、帰ってくるといった。
なんてあっけない別れ。
わたしは泣きもしなかったし、行かないでとも言わなかった。
ただこの教会で、あなたの背中を見送った。


教会には隙間風が容赦なく入ってきて、あかぎれた手には水がしみる。
両手を重ねて息を吹きかけても温かさは一瞬だけで、なんだか空しい。

長椅子に置かれたラジオから「本日は雪が降るでしょう」という言葉が流れ出る。
ラジオは軽やかな音楽を奏で、天気予報の終了を告げていた。
このラジオはツォンが忘れて行ったものだ。返さなければと思っているものの、ツォンは仕事が忙しいのかここ数週間教会にも、わたしの前にも姿を現さない。
そこまで考えて、これではわたしがツォンに会いたがっているみたい、とため息をついた。
本当は、ツォンの目論見はわかっている。
彼は忘れたふりを装ってラジオを置いたのだ。
わたしが一人、無音の世界で花の手入れをする姿を、ツォンは哀れに思っているのだ。

床の軋む音が聞こえて、わたしは振り返る。
教会に、ひとりの男の姿があった。
数週間ぶりに会った男は、疲れ切った顔をしていた。どことなく、顔色が悪くも見える。
「……久しぶり、ね」
言葉を吐き出すと同時に、白い息が空を舞った。
男はこんな寒い日だというのに、スーツ一枚で立っている。
「風邪をひきそうだな」
わたしと傍らにある、水を張ったバケツを見比べてツォンは言った。
それはこっちのセリフだ。わたしは言いかけて、口を閉ざした。
手に持っていたスコップを置いて、土に汚れた手をタオルで拭き取る。

「わすれもの」
椅子に置いていたラジオをツォンに突き出す。
ラジオからは尚も音声が流れていたので、電源を切った。
「なんだ、その手は」
ツォンは目の前のラジオよりも、わたしの手が気になったようだった。
「赤ぎれで血が滲み出ているじゃないか」
「水を触るから」
「……そうか」
短くそう言うと、ツォンは素直にラジオを受け取った。小さなそれは、ツォンの上着の内ポケットにすっぽりと納まった。
「ひどい顔」
ツォンは青白い顔で、わたしを見た。
彼の瞳は真っ黒で、そこにわたしが映りこむ。

「お前もひどい顔をしている」
「ひどい!」
首に巻いたマフラーに顔をうずめて、花畑に戻る。スコップを手に持って、種を埋める作業を始めると本格的な沈黙がわたし達を取り囲んだ。

しばらくの沈黙が続いた。耳に聞こえるのは風の音と、土とスコップが互いに当たる音だけだ。
ツォンはまだ立っている。なにをするわけでもなく、彼はわたしを見ている。
「……ねえ、ツォン」
思い切って、言葉をひねり出す。
「ザックスは……まだ……帰ってこないの?」
この数週間、ずっと抱いていた疑問。ザックスに関する情報はすべてツォンからもらっていた。
そんなツォンがここ最近あらわれなかったものだから、わたしのザックスに対する思いは膨れ上がっていた。
ツォンにザックスのことを聞いても、なんら進展のない情報しか入ってこないが、この数週間の間になにかあったのかもしれない。
わずかな期待が胸をかすめて、わたしはそれが気になって仕方がない。
どんな情報でもいい。ザックスが生きている確証がいまは欲しい。

「……ソルジャーの動向は、タークスの管轄外だ」
「そんな」
背を向けていたわたしは思わず振り返った。
そんなはずはない。だって、ツォンは今までザックスについて情報を教えてくれた。
それらすべては情報と呼べるかどうか怪しいものだったけれど、それでも教えてくれた。
「なんで?いままで、教えてくれたじゃない。それなのに」
「いまさらじゃない。もともと、我々の管轄外のことだ。最近、情報管理に上がうるさくてな」
ツォンの口から吐き出される言葉に、わたしは絶望した。
ツォンというシナプスがない限り、わたしに神羅の情報は入ってこない。

「……エアリス、君には悪いがそういうことだ」
うつむくわたしに、ツォンは語りかける。
なぜ、ツォンはそんなことを言うのだろう。
いままで我儘を言っても、たいがいのことは大目に見てくれた。
今回のこともそうだ。
わたしがツォンの優しさに甘えて、要求しすぎたのだろうか。
ツォンの要求には答えないくせに、自分の要求を果たせと詰め寄るわたしに、ツォンは愛想を尽かしてしまったのだろうか。
なにも言葉を発さないわたしを置いて、ツォンが床を軋ませ遠ざかっていく。

「さ、がんばろうかな」
独り言をつぶやいて、笑う。腕まくりしてスコップを持った時、誤ってスコップの先がわたしの指をかすめた。
指を見ると、赤ぎれた指に一筋の傷が入っている。じんわりとそこから血がにじみ始める。
「ぼんやりしてたから……」
いけないいけない、と独り言。わたしはいつから、独り言をこんなに言うようになったのだろう。
傷の痛さがわたしを冷静にさせて、どうしようもなくなる。喉が痛い。胸が震える。それと同時に、視界がにじみ始める。

「泣かない。泣かない。帰ってくる。帰ってくる……」
言い聞かせるように、言葉が次から次へと口を突く。膝に顔をうずめて、わたしはなんどもつぶやいた。
スラム街はなにもないところだから、花を満開にさせて彼を迎えたい。
いまの季節は冬だから花は咲かないかもしれない。それでも出迎えてくれる人がいないと悲しいじゃない。
スラム街はさみしいところだから。
ここには、あのラジオのようにわたしを温めてくれる人はいないから。
わたしを温めてくれるのはあなただけだから。

帰ってくるよとほほ笑んで背中を向けたあなたに、行かないでと言えばよかった。
行かないで、そばにいて、もう一人は嫌だって。
物わかりの良い女を演じて笑って見送らなければよかった。その足に縋りついてでも引き留めればよかった。

カレンダーについたバツ印。
めくって過去にさかのぼると、それは膨大な数となって現実がわたしを襲う。
どうして、どうしてと疑問ばかりを抱いてこの月日を生きてきた。
見送った季節は、枯れた花となってわたしの前に散らばった。
ツォンの口から、ザックスの死を告げられないように毎回祈った。
太陽の届かないこの世界で、どこからか臭う腐臭。
それはわたしの手のひらや口元にあって、見るとそれは一片の言の葉。



帰ってくるよ。



それは彼の台詞。
わたしと彼の間にある、腐った約束。














2009/2/12














































「クラウド」
わたしの声かけに、目の前を行く金髪の人は振り返らない。
いつもそう。わたしを無視して彼はどこにだって行ってしまう。
わたしの話は聞く必要なんてないとか思っているに違いない。きっとそうだ。
それはとても悔しいし、正直むかつきもするけれど、わたしはそれでもいいと思えるようになっていた。

「エアリス、あかぎれた手が痛そう」
言葉に、声の主を見る。
ナナキがロッドを握るわたしの右手を見つめていた。
「ああ、これね。冬はあかぎれちゃうの。でも、平気」
笑って言うが、「でも、痛そうだよ」と言ってなぜかナナキが沈痛な面持ちで歩いている。
それが面白くって笑っていると、前を歩いていたクラウドの足が突然茂みへと向けられた。
茂みに入り、腰をかがめて何かをがさがさ漁っている。
そんなクラウドの後ろ姿を見て、わたしとナナキは顔を見合わせた。
なにを探しているのだろう。もしかして、悪いものでも食べたのかしら。それは、万能薬で治るものかな。
思わず、ポシェットに手が伸びる。たしか、万能薬が入っていたはずだ。
ポシェットをあけると、中には万能薬が一個入っていた。ほっとして、それをもって顔を上げる。

だが、顔をあげた先に腰をかがめて茂みをあさるクラウドの姿はなかった。
彼は、いつの間にかわたしの目の前に立っていた。
さっきまでその顔を見たかったのに、いざ目の前に現れたクラウドに声が出ない。
「ほら」
クラウドの青い瞳を見つめているわたしに、彼は何かを伝えようとしている。
彼の手には、一本の緑の植物。
「アロエだ」
「アロエ?」
「知らないのか?植物に詳しいくせに」
呆れた風に言うと、クラウドがおもむろにわたしの手をつかみ上げる。

その手は驚くほど冷たい。見ると、クラウドの手にも赤ぎれがあった。
「赤ぎれに効く」
「そう……なんだ」
アロエの果肉は透明で、赤ぎれの手によくなじむ。
だが、今のわたしの全神経はアロエよりもクラウドに向けられていた。
わたしの手を握るクラウドの手。冷たいそれとは対照的に、わたしの頬は熱を帯びている。
意識していると気付かれないように、うつむく。
そうしていると、わたしの手からクラウドの手が離れた。
支えを失ったわたしの手は宙ぶらりん。
クラウドは手に持っているアロエを、自身の赤ぎれに塗ろうとしている。
「あっ!」
わたしは大きな声をあげた。クラウドが何事かとわたしを見る。そのすきに、彼の手にあるアロエを奪った。

「なにを……」
「わたしが塗ってあげる!」
は?と声を上げるクラウドを無視して、先ほどのクラウドのように彼の手を握る。
「わたしが、塗ってあげる」
間近でみるクラウドの手は、大きく角ばっていた。指は太く、指までも筋肉質だ。
赤ぎれに、思わず眉をしかめる。自分の赤ぎれには全くなにも感じないが、たしかに痛々しい印象を受ける。
ゆっくり丁寧にアロエを塗る。こうしていると、わたしはやはりクラウドが好きなんだと改めて思い知らされる。
普段なら何も考えずにできることも、クラウドが相手だとすべてが不器用になる。
「もういい」
ぶっきらぼうな言葉に、アロエを塗る作業をやめる。
クラウドはどこか不機嫌そうな顔をしていて、わたしの手から乱暴に自身の手を引っ込めた。

「ねえ」
クラウドの態度にショックを受けているわたしに、ナナキが声を上げる。
「オイラの前足にも、塗ってよ。さっき足切っちゃった」
「……けがにも、効くの?」
「効く」
またもやぶっきらぼうな言葉。クラウドは腰をかがめて、ナナキの前足にアロエを塗り始めた。
わたしはぼんやりとそれを見つめたあと、茂みに足を向ける。

「何をしてるんだ?」
背後からのクラウドの言葉に「うん」と返して振り返る。
「みんなにも、持っていこうと思って!」
喜々として答えるわたしを見る二人の間に、数秒の間があった。
きょとんとするわたしを余所に、次の瞬間二人は大きな声で笑い始める。
「持ちすぎだよ、エアリス!」
ナナキがしっぽを振りながら言っている。
わたしの手には、たくさんのアロエがある。クラウドはうつむいて肩を震わせていて、この行動がどれほど素っ頓狂なものかを物語っている。
「ほら、でも……たくさんあったほうが、いいでしょ!遠慮しないですむから」
苦しいわたしの言い訳に、クラウドが目もとを拭いながら大きく頷いた。

袋にアロエを詰め込んで、歩きだす。
クラウドは相変わらず前を行ってしまうけれど、今のわたしの心は穏やかだ。



いろんなことが変化したけれど、わたしの手の赤ぎれはあの頃のままだ。
泣きながら花を育てた日々。帰らない人をひたすら待った寒い季節。
けれど、あの約束とわたしの思いが、クラウドと出会うきっかけとなった。
なにが良かったのか、悪かったのか、わたしにはわからない。
でも、あの約束があったからわたしはここにいる。
だからもう、幼い時のように「わたしを一人にした」と彼を恨むのはやめにしよう。



赤ぎれた手が、あたたかい。










2009/02/17






inserted by FC2 system