楽園

曙の空を見上げる。
ポシェットには、宿の厨房からくすねたパンとチーズ。
空を知らなかったわたしが、こうして空を見上げている。
痩せた土で育った花しか知らなかったわたしは、肥えた土で育つ花を知った。
砂のようにパサついたパンと、味気ないチーズしか知らなかったわたしが、
芳ばしい香りを放つパンとチーズの味を知った。

この人たちに出会わなければ、わたしは多くのことを知らなかった。
出会わなければ、鳥のさえずりも、木々の葉が擦れる音も、海のさざ波も知らなかった。
出会わなければ、生に執着することも、別れに胸を痛めることもなかった。
出会わなければ、自身の運命を嘆くこともなかった。

わたしの母もこうだった?
愛する人の寝顔に別れを告げるのは、こんなに胸を締め付けられるものだった?

それでも、ふしぎ。
この人たちに出会わなければよかったなんて、一つも思わないの。

多くのことを教えてくれてありがとう。
多くの幸せをありがとう。

この結末がたとえどんなものであろうと、なにも知らなかったあの頃に戻りたいなんて思わない。
あの頃には戻れない。
それでも構わない。

この楽園に、別れを告げるわ。


2010.10.29 エアリス


床は冷たく、白い吐息が埃を舞い上がらせる。
埃が鼻をむず痒くさせて、ナナキは頭をもたげた。
窓からは空が見えて、薄暗い雲から白い雪が舞い降りる。
暖炉のそばには、うたた寝をするクラウドがいる。
薪が大きな音を立てて爆ぜた。
その音でクラウドが目を覚まし、自分を見つめるナナキに気づいた。

「……」
クラウドとナナキはお互いを無言で見詰め合った。
そういえば、クラウドとこうして二人っきりなのは初めてな気がすると、ナナキは思う。
何か落ち着かない。そう、いつもこういうときはエアリスが側にいた。
クラウドの青い瞳から、再度窓から雪を見る。

「しんしん、って音がするって言ってた」
この部屋で生まれた初めての言葉は、ナナキだった。
「エアリス、言ってた。雪が降るときは、しんしんって音がするんだって」
あれはいつのことだっただろうか。
今みたいに、エアリスは暖炉の側に座ってナナキの鼻先を撫でて言った。
(本で読んだのよ)
そういって、少し寂しそうに笑った。
わたしが知っている世界は、本の中だけ、と言って。

雨はザーザー、風はビュービュー、木はザワザワ。
世界は音に満ち溢れていると、エアリスは言っていた。
それらの音をすべて聞いてみたい、とも。

「エアリス、雪が降る村で生まれたって言ってた。ここがそうだったんだね」
ナナキは外を見つめ言った。
なぜだがクラウドの顔を見ることができなかった。

エアリス、雪が降ってるよ。
エアリスが見たいとつぶやいた、あの雪がたくさん降っている。
しんしんという音はしない。ただ音もなく雪が降り続いて、世界を白く染めるだけ。

(ナナキはいいなあ)

鼻をくすぐるエアリスの指先が蘇り、ナナキは鼻を鳴らした。

(ずっとずっと長生きなんでしょう?いろんな世界を見ることができるのね)

あの時、長生きという意味が良くわかっていなかった。
人間より長く生きるということ。それは人間を見送る側になるということ。
いま側にいるクラウドも、ほかの仲間も皆、オイラを残して逝ってしまう。
そのことに今更気づいた。エアリスの最期が脳裏をよぎって、ナナキは床に爪を立てた。
あんな別れは嫌だと、心の底から思った。
同時に、オイラの悲しみを分け与えてくれる種族はどこにいるのだろうという
無限にも思える悲しみが胸に沸き起こった。

エアリスの気持ちが今ならわかる。
古代種の末裔という孤独、不安、悲しみ――。
周りに人はいるが、どこか違う。
自分の悲しみを分け合って、同じように悩んでくれる人がいないという悲しみ。
同じ種族がいないという孤独。やはり自分は一人ぼっちではないかという不安。
もっとエアリスと話したかった。
エアリスとは、違う種族でありながらも分かり合える存在だったかもしれない。

(ナナキ、だいすきよ)

頭を撫でながら笑うエアリスの言葉が耳元で聞こえて、ナナキは目を閉じた。
瞼の裏で、無限に続く雪の世界で笑うエアリスが見えた。
楽しいねと笑う、彼女の姿




2013.4.29 ナナキとエアリス




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