腹部を触ると、手のひらは真っ赤だった。人目につかぬようコートで血をぬぐい、柱をつかむ。
ミッドガルの路線は整備されていないのか揺れが激しい。そのたびに、痛みが体中を駆け巡る。
どれほどの時間が経っただろう。随分と時間が経ったように思えるが、腕時計を見ると数時間しか経っていない。
「おかあさん、そこ、あいてる」
エアリスが手を引き人込みをかき分ける。歩くたびに痛みが自己主張を始め、思わず眉をしかめた。
エアリスが見つけた席はボックス席だった。ゆっくりと座り、窓枠にもたれる。ひんやりとした冷たさが頬に伝わり、幾分か楽だ。
帰宅ラッシュなのか、電車の中には多くの人がいた。椅子が空いていたのは運が良かった。
人々は灰色の雰囲気をまとって、疲れた顔をしていた。吊皮を持って窓に反射する自分の顔を見ている者、愛の言葉を囁き合う恋人たち。
このなかに、神羅の人間はいるだろうか?コートの襟を頬に寄せる。
わたし達のことを知っている人間は神羅でもごく一部だ。この中に神羅社員がいたとしても、わたし達に気付く者はいないだろう。
そう思っても、恐ろしさからコートのフードを被る。エアリスにもフードを被るよう指示をして、大きく息を吐いた。

神羅から逃げ出したのは数時間前のこと。なにかを叫ぶ宝条の声が聞こえたが、言葉までは聞き取れなかった。
どこからか宝条の笑い声が聞こえた気がして、顔を上げる。もしかしたら側にいるのかもしれない――。不安に声を上げそうになるのを、唇をかみしめて堪える。
大丈夫、大丈夫と何度エアリスに言い聞かせたことだろう。それは自分に対する言葉でもあった。
衣食住の心配はなく、生活用品も完備されていた部屋。何不自由ない生活を保障する代わりに、研究に身を捧げろという宝条からの無言の圧力。
あそこにいるわけにはいかなかった。彼らは夫を殺し、わたし達をただの道具として扱う。わたし達に待っているのは死だ。
幼いエアリスを連れて神羅を脱出したとき、侵入者と勘違いしたのか、神羅兵に発砲され傷を負った。
発砲されるとは思っていなかった。神羅にとって古代種は喉から手が出るほど欲しい存在なのだから、決して手荒な真似はしないはずだと高をくくっていた。

「だいじょぶ?」
薄眼を開けると、エアリスが不安げな顔でわたしを見つめていた。
ゆっくりとうなずいて、ほほ笑もうとしたがうまくいかなかった。
まさか――。ある考えが脳裏をよぎって、エアリスを見る。エアリスはきょろきょろとあたりを見渡している。
初めて乗る電車が物珍しいのか、こんなに多くの人を見るのが初めてなのか。おそらくその両方だろう。
「……きょろきょろ、する、のは止めなさい」
とぎれとぎれのわたしの言葉に、エアリスは首をすくめて大人しくなる。

エアリスは大きくなった。時折驚くほど大人びたことを言うことも多くなった。
それは父親譲りなのか、早く大人にならなければ自らの身を守れないと悟ったからなのか。
神羅からすると、わたしはもう用済みなのかもしれない。研究し尽くし、年をとり生殖能力が低下したと判断されたのかもしれない。
だが、エアリスはまだ幼くこれから大人になっていく。若く体力もある、優良なサンプルが手に入ったのだ。
そう考えると、神羅兵が発砲した意味も合点がいく。決してエアリスは傷つけぬよう、あとは自由にしろと宝条から達しがきたのかもしれない。

窓に映る自分の顔を見る。そこには疲弊しきった女が映っていた。
視線を横に滑らせると、同じく窓を見つめているエアリスと目があった。
エアリスの手が、わたしの手を包む。
小さな手だ。まだ幼い少女に辛い思いを沢山させてしまった。この子の行く末には一体何が待ち構えているのだろう。

「おかあさん、いまから、どこにいくの」
エアリスがたどたどしく尋ねる。駅のホームで目の前の電車に飛び乗ったわたしには、この電車がどこに行くのかは分からない。
だが唯一分かっていることは、できるだけ遠くへ行くということだ。できることなら、北の大地へ行きたい。
「……アイシクルロッジ」
言葉を放った瞬間、瞼の裏にありありと村の風景が甦った。
雪の降る音、部屋に満ち溢れていたクラシック音楽、暖炉の薪がはぜる音――。
何度も夢に見た風景だった。そのたびに手を伸ばし、届かない現実に絶望した。
あの雪にもう一度触れたい。雪だるまを作る子供達、毎年訪れるスノーボーダー達、親切な村人がいたあの村に帰りたい。
わたし達が暮らした、あの家はまだ残っているだろうか?わたしのことを覚えている人はいるだろうか。
「……アイ……?」
聞き慣れない村の名前にエアリスが首をかしげる。あなたの生まれ故郷よと言おうとしたが、やめた。
この怪我を負った状態で、長旅に耐えられる訳がないことを自分自身よく分かっていた。
現に今も、時折視界がかすむ。コートを見ると、黒のコートが一部分だけ濃くなっている。黒いコートでよかったと安心するが、わたしは一体どこまで持つだろうか。

「……いつか、あなたも……行くと、いい、わ」
エアリスは首をかしげて、「名前が分からないから行けない」と言った。
確かにそうだと、頷く。それでもいつか、エアリスが行けたらいい。雪が綺麗なあの村で、あなたは育つはずだった。
雪の白さを知り、村の誰かと恋に落ちて、結婚をし、子供を産んで家族となる。古代種の運命など忘れて暮らしていたのかもしれない。
そうなることを、ガスト博士も望んでいたはずだ。このまま遠くに逃げて、慎ましく二人で暮らせたらどれだけいいだろう。

「……おかあさんと行きたいな」
エアリスがわたしの隣に座り、膝に頭を乗せて横になった。
疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた。栗色の細い髪を撫でながら、窓の外を眺める。

エアリス、エアリス――。
ガスト博士の声が甦る。彼は毎晩、赤ん坊のエアリスに絵本の読み聞かせをしていた。
主人公の名前をエアリスにして、何度も何度も名前を呼んでいた。
赤ん坊に読み聞かせをしても分からないと言っても、彼は毎日同じ絵本を読み続けた。
エアリスが大人になったとき、この絵本を懐かしく思って読む。そして自分の子供に読み聞かせをするんだ。
家族の思い出が継承されていくのは素晴らしい事だろう。
彼はそう言って笑った。わたしはその笑顔が好きだった。彼が放った「家族」という甘美な言葉は、いつまでもわたしの胸に響いていた。

彼と過ごした家族の数年間は、鮮やかな色彩で何度も目の前に現れる。
ガスト博士と二人の生活を始め、やっと幸せを手に入れたと思った。エアリスを身ごもり、これで一人じゃないとほほ笑んだ。

あの日の銃声が甦って、瞼を閉じる。
もう絵本はない。エアリスは絵本を忘れて、そして父親であるガスト博士のことも年を重ねるにつれて消えていく。
優しかったガスト博士。わたしとエアリスを守って星へ還った人。わたしが愛した人。
幸せはいつも逃げていく。
掴みかけたところで、指の隙間からこぼれおちていく。そのさまはまるでわたしを嘲笑っているかのようだ。
だが、一つだけ掴んだ幸せがあった。その幸せを撫でながら、電車の揺れに身をゆだねた。



『次は、終点。終点です』

車内のアナウンスに、目を開ける。いつの間にか眠っていたようだ。
先ほどまで周りにいた乗客は姿を消し、車内に残っているのはわたしとエアリス、そして一人の酔っ払いのみだ。
腕時計を見ようとするが、腕を動かすのすら辛い。やっとの思いで時計を見ると、針は深夜を指していた。この時間では、もう列車は走っていないだろう。
終点の駅について、そこからどうすればいいのだろう。真冬の駅のホームで野宿なんて、自殺行為に等しい。
そうでなくても、神羅の追手に捕まることだろう。そのとき、わたしは生きているだろうか。

電車のドアが大きく息を吐いて開く。エアリスがわたしを支えようとするが、幼い体では支えきれない。
壁に手をつきながら電車からホームへと降り、地面に膝をつくと、駅員が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?気分が悪いのですか?」
人のよさそうな顔をした青年だった。青年は、わたしの顔から地面に視線を落とすと眉を寄せた。
外灯に照らされたホームに、血の跡がついていた。わたしの腹部からの出血が、地面を汚していたのだ。
「すこし、やすむ、だけ、だから……」
今にも泣き出しそうな顔をしているエアリスの頬に触れて、ゆっくりと横になる。
駅員は「人を呼んできます」と、どこかへ走り去った。
コンクリートは氷のように冷たかった。
「おかあさん!おかあさん!」
エアリスの悲痛な叫びが夜の駅のホームに響く。
同時に、どこからか靴音が聞こえる。それはゆっくりとこちらに近づいてきた。
「大丈夫ですか?一体どうしたんですか?お名前は?」
矢継ぎ早な質問を浴びせるのは、中年の女性だった。赤毛の髪を結って、気品を漂わせている女性だった。
口を開こうとするが、満足にいかない。エアリスはついに泣きだして、大粒の涙を流している。

女性がエアリスの肩に手を置いた。膝をつき、わたしの顔を覗き込んで、手袋をはめた手で両頬を包む。
「もうすぐ駅員さんが帰って来ますから。……早くお医者さんに診てもらわないと……」
彼女はひとり言のように言って、わたしを安心させようと笑顔を作った。何度もわたしの頬を擦り、大丈夫ですよ、を繰り返しながら。
わたしはその姿を見て、朦朧とする頭で覚悟を決めた。

わたしはここで死ぬ。幼い子供を一人残して、わたしはここで死んでしまう。
この人に全てをかけるしかない。
祈りを込めて、力を振り絞る。
「……エア、リ、ス……を、……た、の……み、ます」

言いたいことは沢山あった。心に浮かぶのはエアリスのことばかりだった。
わたしの大切な子供なんです。夫の忘れ形見なんです。わたしがやっと手にした幸せなんです。
どうか、どうか愛してください。愛情を注いで、明るく優しい女の子に育ててあげて下さい。

女性がこわばった表情で、大きくうなずいた。それを見て、大きく息を吐く。
白い息が昇って消えた。その先にあるはずの夜空は、ここには存在しないことに気付く。

「おかあさん」
声にならない声を上げて泣いているエアリスを見る。

わたしを一人にする古代種の血を何度恨んだことだろう。生まれてきた意味を考え、人生の答えを渇望していたあの頃。
神羅にとらわれ、利用されるのがわたしの運命?これがわたしの人生の答え?なにもできないのに、星の声に耳を傾けることが?
こうしてわたしは死んで行くのだろうか。たった一人、暗く冷たい世界で?
そんなのは嫌だと、何度も叫んでいた。もう一人は嫌だった。家族が欲しかった。暖かい手を待っていた。

手を伸ばすと、エアリスはわたしの手を取って頬にあてた。小さな手、柔らかい頬、あなたの体はいつだって暖かった。あなたの存在に、何度救われたことだろう。
もっと、もっといろんな話をしてあげればよかった。あなたのお父さんのことや、わたしがいかにあなたを愛していたかを語ってあげればよかった。

エアリス、おかあさんはずっと悩んでた。あなたは生まれてきたことを喜んでくれるだろうかと。
アイシクルロッジで暮らした日々は幸せで、あそこなら古代種でも生きていけると思った。

でも、うまくいかなかった。そしてわたしはあなたを一人置いていく。
ごめんね、エアリス。幼いあなたに辛い思いを沢山させた。そして、これからも悲しく辛い思いを沢山するだろう。
古代種が幸せになるのは難しいのかもしれない。生きていく意味が分からないと嘆くこともあるだろう。生まれてきたことを後悔することもあるかもしれない。

それでも、わたしは多くの幸せに出会った。
古代種でなければ、ガスト博士に出会うことも、あなたを生むこともなかった。
あなたをこの腕に抱いたとき、初めて思った。古代種でよかったと心の底から思えたのよ、エアリス。

伝えたいことは山ほどあるのに、あふれ出るのは涙ばかりだった。
最後にエアリスの姿を目に焼き付けたいのに、涙のせいで視界がぼやける。

どうか、エアリスが古代種でよかったと思える時がきますように。
エアリスの未来が、光り輝くものでありますように。
そして、わたしのことを一刻も早く忘れて、涙が乾きますように。













エアリス、あなたがわたしの人生の答えだった。





















2010/11/12 meri.













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